都民参加への模索連絡会夏季討論合宿
林田力
都民参加への模索連絡会は夏季討論合宿を2014年7月12日及び13日に神奈川県足柄下郡湯河原町で開催した。以下は合宿の所感である。合宿の内容を紹介するものではなく、合宿の議論を元に考えたことを述べている。合宿後の世話人間の議論も踏まえた内容になっている。この合宿の意義を一言で述べるとすれば、2014年東京都知事選挙における宇都宮健児候補の支持者と細川護煕候補の支持者が集まって敵意をぶつけ合わずに議論できたことである。今後も平場で議論を続けていきたいという結論になった。
今後の集会テーマとして都市計画が出た。私が細川支持の動きの中で批判したものは細川氏本人が云々ということよりも、脱原発至上主義であった。それ故に脱原発至上主義でないテーマが挙がったことは歓迎できる。
一方で細川支持者の人々は宇都宮健児候補の出馬経緯に対して、わだかまりを抱いていることを再確認した。これが単なる宇都宮批判ならば「細川護煕候補の出馬経緯は市民派各派と調整したのか」と返せば済む。しかし、問題意識の中には今後同じようなことを繰り返してはならないというものもあり、「過去を蒸し返すな」と封じ込めて済む話ではない。但し、「出馬経緯が信義に反する」との主張に関して目新しい事実が提示された訳ではなかった。
私は宇都宮氏の出馬を期待し、歓迎した立場であり、所謂フライング論を批判している。その立場に変わりはないが、合宿のテーマである市民派統一候補ということを考えるならば批判者の問題意識は受け止める意義があると考える。合宿では東京都世田谷区と千葉県松戸市の市民派統一候補擁立の試みが報告されたが、共に政治家側の勝手な出馬という擁立側から見ると「裏切り」行為が問題になっている。
原則は立候補の自由がある。選挙前に談合のような形で候補者を絞ることよりも、立候補したい人が立候補して各々の主張を展開し、有権者に判断してもらうことが選挙制度の趣旨である。市民派統一候補擁立は不自然なことである。統一候補でまとまらずに独自に立候補することは有権者に選択肢を提供することになる。私としても「脱原発至上主義が市民派の総意」と押し付けられたならば、それを否定することに熱を入れたい。もし市民派統一候補擁立の動きに少しでも不満があれば、そこから抜け出して独自の候補擁立を目指すことは自由であり、それを正当化する論理は構築可能である。
一方で誰もが少しでも気に食わないことがあれば脱退するということでは、市民派統一候補は絶対に実現しない。統一候補擁立を目指す側としては容認し難く、「裏切り」や「信義に反する」と言いたくなる。何しろ立候補は自由であり、「裏切り」を掣肘する手段は皆無に近い。できることは「裏切り」がなされた場合に不当な行為として記憶し、記録することくらいである。この意味では東プロ総括や細川勝手連総括のような文書が出てくることは理解できる。
しかし、立候補する側にも言い分はあり、有権者への選択肢の提供という大義がある。「裏切り」批判が一方的なものならば統一候補擁立側の信頼性が問われる。
合宿の報告でも全ての事例が約束違反になるか疑問があった。そのために私は質疑応答で擁立側が候補者に約束を求めたことの理由を質問した。その回答は擁立側の論理としては理解できるものであったが、そのような約束を擁立側が候補者に押し付ける権限があるのか疑問なしとしないものがあった。その意味でも「過去を蒸し返すな」ではなく、徹底的に議論することが有益である。
まず政治家が「勝手に」出馬した事例には傍から見ても自分が統一候補に選ばれそうにないから出馬したと評価できる事例がある。これを擁立側から非難することは容易である。それでも擁立側と政治家に政策面の相違があれば、その相違点が重要なものであり、有権者に選択肢を提示するという大義をもって正当化できてしまう。
一方で政策の大枠は合致するとしても、政治と政党についての考え方の相違が対立の背景にあるケースもある。これは一般に流布されがちな「日本共産党が統一をぶち壊した」的な話ではない。報告事例では民主党が壊したと評価できる事例もあったし、無所属議員が壊したと評価できる事例もあった。要するに誰でも壊し得るものである。
火種は市民派統一候補を擁立する超党派の枠組みの捉え方の相違である。一つの捉え方は政党色をなくし、無党派を志向するものである。別の捉え方は野党ブロックを構想するものである。この捉え方が擁立側と政治家で分かれていた場合に両者の対立が生じやすい。これは考えが異なることが問題で、どちらがどちらの場合でも起こるものである。
擁立側が無党派志向である場合、政治家に政党人ではなく、無党派として行動することを求めたくなる。それは選挙後も変わらない。ところが、政治家が野党ブロック志向であると「政党を無視して政治ができるか」と考える。それが具体的な行動に現れると、擁立側は政治家の行動を約束違反と非難する。
逆に擁立側が野党ブロック志向で、政治家が無党派志向である場合もギャップが生じる。擁立側は現首長の予算に反対する各会派と足並みを揃えることが対立軸を作ることになると考える。ところが政治家の方は各議員に対して会派所属議員ではなく、区民党の立場から是々非々で判断してもらうことを理想と思っている。この考え方の溝を埋められずに統一候補がまとまらなかった事例もある。
管見は野党ブロック志向に近い。議会制民主主義において議会内に会派が生じることは必然であり、政党政治は必然と考える。大統領制型の地方政治も首長だけに担うものではなく、首長と議会が両輪であり、やはり政党は重要である。市民側に「無党派であることがカッコいい」「無所属になって初めて独立して政治活動ができる」的な政党否定の風潮があるが、それも政治離れの帰結の一種であると感じている。
無所属議員が会派所属議員よりも様々な苦労をしており、勉強していることは承知している。私は希望のまち東京in東部で東部各区の区議会の質疑を調査したことがあったが、特定会派の区議は各々の区議会で同じ要求をしていた。上位レベルで政策の共有をして、それを各区に下ろしていることを推測させる。それに比べると無所属議員は質問一つでも全て自分で考えなければならない(山本太郎参議院議員の質問主意書パクリ事件はあったが)。
会派所属議員は楽をしていることになるが、その楽も人類の有意義な発明の一つである。その発明によって楽をするだけの議員も多いが、有意な活動に振り向けることもできる。故に「会派の特権をなくして全ての議員が一個人として行動すべき」とは考えない。
但し、「議会制民主主義では会派は必然」は近代という一つのパラダイムに規定された考えに過ぎないとの自覚はある。そして無党派志向の中には、そのパラダイムに挑戦するという問題意識があることは認識しており、無下に否定するつもりはない。
やはり異なる考えが議論を深めることが重要である。考え方が異なるということを認識すれば、同意はできなくても、相手の言動を理解することはできる。それによって結果的に別々の道を歩むことになったとしても、市民派同士で「裏切り」や「信義に反する」などの、おどろおどろしい言葉が飛び交うことは抑制できるのではないか。
今後、市民派統一候補擁立の試みを続けていく上で「気に入らないことがあるから脱退」を可能な限り避けることが課題になる。あくまで原則は気に入らないことがあれば脱退することは自由である。私自身も気に入らないことがあるために東急不動産とのマンション売買契約を取り消し、マンション管理組合理事長として東急コミュニティーの管理会社解約を推進した経験があり、見切りは早い方である。
「気に入らないことがあるから脱退」の意思が尊重されることは大前提である。しかし、皆が「少しでも気に入らないことがあれば脱退するぞ」とちらつかせては、市民派統一候補擁立は成り立たない。即効薬はないが、徹底的に議論を深め、仲間意識を抱き、簡単に脱退できないような関係にしていくしかないだろう。その意味では湯河原合宿は有益な一歩と評価できる。
議論の姿勢
市民派統一候補の擁立という観点から合宿の議論で気になった点として、「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」という姿勢が強いことである。これに対して「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」という姿勢が乏しいと感じられた。合宿では「市民派統一候補を擁立し、当選させるために何でもかんでも100%の要求を通すことはできない。ほとんど変わらないものと覚悟しなければならない」と問題提起された。これは様々な主義主張の人が集まって統一候補を擁立する場合の見識である。ところが、そこで脱原発に関心が高い人が「だから脱原発選挙にしなければならない」と主張し、それに対して護憲平和運動に取り組んでいた人が「いやいや脱原発だけでなく、護憲平和も入れなければならない」と主張する。これでは自分のやりたいことを言っているだけであり、「気に入らなければ即脱退」の世界になる。
「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」だけではダメとの主張は細川支持者からの宇都宮陣営批判として見られがちである。「正しい運動ではなく、勝てる選挙」論である。しかし、むしろ宇都宮陣営は「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」ことを考えていた。それは東京オリンピック・パラリンピックに対する政策に反映されている。逆に細川陣営の脱原発至上主義は勝てる選挙ではなく、脱原発運動家が自分にとって正しい運動を追及しているだけのものに映った。有権者の都政への関心を無視したものであり、反感を受ける結果になった。
「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」という姿勢が乏しい理由として、「小早川秀秋のような日和見主義、情勢分析屋ではダメだ」と積極的に否定する立場がある。しかし、小早川秀秋がダメな理由は最後の最後まで旗幟を鮮明にしなかった鈍さにある。藤堂高虎や黒田長政のような動きが必ずしも悪いとは思わない。むしろ藤堂高虎や黒田長政のような冷徹な分析力のない分析屋が幅を利かせたことが悲劇である。都知事選挙の「勝てる可能性のある候補は細川護煕候補」論である。勝てる可能性がある候補を応援することは悪いとは思わない。むしろ、直近の選挙結果・政党の消長を踏まえた上で細川氏が勝てると分析するセンスの古さを批判する。
また、小早川秀秋の不実は裏切ったこと以上に、東軍について当然の人物が西軍として行動したことにある。小早川秀秋は石田三成を恨み、徳川家康に感謝する立場であった。受けた恨みを忘れないという立場では西軍につくこと自体があり得ない。この点でも細川政治改革(小選挙区制)や小泉構造改革で痛めつけられた人々が細川氏を支持することは滑稽である。
言うまでもなく「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」は絶対ではない。極論すれば国民の多数が戦争を望めば開戦するのかという話になるためである。それでも脱原発の思いから始まった都民投票運動から「原発に賛成でも反対でも皆で投票して決める」ことに価値を見出す意見が生まれたように、民主主義社会で政治に取り組むならば、自分のやりたいことだけでなく、有権者の多数が何を望んでいるかという視点が求められる。
「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」という姿勢が強くなる別の要因として市民派統一候補観のギャップがある。私は異なる人々、本来ならば別々の候補者を応援して然るべき人々が妥協して統一候補を擁立するというイメージである。このイメージからすると「正しい主張を貫かなければならない。やるやる詐欺とは手を組まない」という原理主義的なアジテーションは「そのような姿勢で統一候補を擁立できるのか」という違和感がある。
これに対して、本来は一つであった人々が別々の党派に分かれており、そこで統一候補を擁立するという統一候補観もある。この統一候補イメージは正しい主張に純化しようとする姿勢と必ずしも矛盾しない。日本の現状において「本来は一つであった人々が別々の党派に分かれている」ことも一つの真実である。それ故に、このようなイメージの統一候補擁立の動きがあってもいい。しかし、それが市民派統一候補になるかは疑問である。「本来は一つ」に連ならない人々にとって参加する大義も資格もないためである。
細川勝手連と細川護煕票
都民参加への模索連絡会夏季討論合宿では宇都宮支持者と細川支持者が今後も平場で議論を続けていきたいという結論になった。宇都宮支持者と細川支持者で統一候補を模索することは大きな意義がある。単純な数字合わせであるが、もし2014年東京都知事選挙で宇都宮98万票と細川95万票が一つになったとしたら、舛添要一候補に匹敵する。問題は細川勝手連が細川95万票を体現しているかということである。既に私は細川勝手連と細川陣営のギャップを指摘したことがある。そのギャップは細川勝手連と細川95万票のギャップにも重なると感じている。何故ならば、直感的に感じたことであるが、細川勝手連流の細川支持は、脱原発を唱えた細川氏個人を応援するという傾向が強いためである。それでは宇都宮98万票とは別の政治嗜好を持つ人々として細川95万票を捉えることにはならない。
たとえば国家戦略特区に関する細川氏の選挙戦最終盤の公約は「規制緩和を推進し、岩盤規制を打破するが、解雇特区は慎重に」というものであった。当時は脱原発至上主義が批判されて仕方なく生活密着課題の公約を打ち出したと言える状況であり、どこまで「解雇特区は慎重に」と考えているかは疑わしい。むしろ宇都宮陣営のブラック特区批判があったからこそ、細川陣営も「解雇特区は慎重に」と言わざるを得なくなった。
故に宇都宮氏を支持するが、細川氏の公約が言葉通りのものであるならば、それを積極的に支持する人々もいる。何でもかんでも規制緩和に反対という左翼教条主義よりも民意に近い。宇都宮支持層の間でも選挙の供託金を参入規制と呼び、規制緩和を求めるレトリックが使われているほどである。
もともと規制には同業者保護もあれば消費者保護もあれば労働者保護もあり、性質も参入規制や事後規制など様々である。それらを一まとめにして規制緩和賛成・反対の二分法にすることは乱暴である。故に「規制緩和を推進するが、解雇規制緩和は慎重に」は一つの見識である。
しかし、細川勝手連の支持者からは、このような脱原発以外の面での政策評価は、あまり聞かれない。逆に「細川氏は本音では国家戦略特区に反対」など公式の主張と逆のことを主張する傾向がある。むしろ細川勝手連の人々の求める政策は非常に左翼的である。故に「そのような人々が何故、細川氏や小泉氏を熱狂的に支持するのか」という疑問が生じる。細川氏や小泉氏の政治的立ち位置を無視して、人間として支持していなければ説明つかない。「新自由主義は嫌いだが、細川氏や小泉氏は特別だ」というメンタリティである。
私としては細川勝手連とつながることで、細川95万票とつながることができるならば素晴らしいことと考えるが、細川氏や小泉氏しか見ていないように感じられる。中には民主党や連合の支持が必須と考える人もおり、それは一つの考えである。しかし、これから細川95万票がまとまるムーブメントが起きるとしたら、民主党よりも維新と結の新党になる可能性もある。そのような第三極に対して、細川勝手連の支持層が宇都宮支持層よりも柔軟な姿勢を持っているようには見受けられない。むしろ頭ごなしの拒否感が強い。
そのような細川勝手連支持者と宇都宮支持者が合意できるところから合意するという形で建設的に議論すると、逆に非常に狭い左翼的なものになってしまうのではないかとの危惧がある。平行して広い民意を意識していくことが必要である。
但し、これも統一候補観によって評価が変わる。「本来は一つであった人々が別々の党派に分かれている」との問題意識に立つならば、狭いものになったとしても、それを一つにすることには意義がある。
人間は造物主のように世界全体を作り変えることはできないとしても、自分の目の届くところから変えていくことはできるかもしれない。都民参加への模索連絡会の立ち位置からすると、宇都宮支持者と細川勝手連支持者の連携から取り組むことが目の届くところからの行動になる。
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