林田力「知的所有権の独自性」1999.11.14 top
知的財産は情報であり、それは伝統的な法学はあまり問題としていなかった。いつも社会が知的財産の財産的価値を認識した後で、情報というものに法が以下に対応すべきか、という問題が提起される[1]。そこでは基本的には情報の特質にmatchした法的分析が必要となる[2]。それ故、知財法学者が知財法の独自性を強調するのも当然だが、民事法学からは過度の強調によって掘り下げた考察を回避していると批判される[3]。もし知的所有権が有体物を対象とする財産権一般と同じものならば、知的所有権は物権法の枠内で十分に把握できてしまうことになり、知財法は民法の一特別法に過ぎないものになってしまう[4]。そうなると知的所有権は民法学の守備範囲に含まれてしまうので、知財法学者としては本能的に独自性を主張してしまうのかもしれない。本論はこの知的所有権の特殊性は、知財法分野の独自性に基づくものではなく、客体の無体性に基づくものであり、その本質が所有権と同様であることを明らかにすることを目的とする。
所有権は物理的に存在する客体に対応しているのに対し、知的所有権の客体は、物理的には存在せず、単に観念的なものである。権利の排他性も、「有体物を客体とする権利のようにその性質に基づくものではなく、いわば人工的なものであって、完全ではない」[5]。特に「行政庁の行政処分によって発生する」工業所有権は[6]、人工的観念的な性格が強い。だが有体物にも、土地のように、登記簿の記載によって人為的技術的に区分され[7]、「自然的観察の客体そのままではなく、一つの法技術的概念である」ものもある[8]。
しかも客体が観念的なものでなく現実支配できるものでも、主体者の現実支配に対応して所有権が成立するわけではない。所有者は所有物を放置しておいても[9]、他人が占有していても所有者であることに変わりない。北海道に一度も行ったことがない人でも、北海道の土地を所有できる。つまり所有権は客体の観念的帰属、即ち物に対する支配可能性という観念的関係であり、支配の理由付け、権原titleにほかならない。日本をはじめとするasia的封建制の残存する地域では所有権の観念性の思想が弱いが[10]、それと知財権の無視・軽視は無縁ではない。German法のGewereのように占有という外形によって物権が実現されるという法意識のあるところでは完全に観念的な知財権は尊重されにくい。無断利用されても嫌な気がしないというお人よしな著作者も少なくない[11]。
資本主義経済の下においては、所有権の最も重要な作用は、資本として利用して利得を収めることであり[12]、現代では観念的な支配の重要性が増大する[13]。公示制度の整備された近代において発達した抵当権[14]は物の占有を要素とせず、登記簿の上だけの観念的な物権である。このように観念的な権利が重要視される現代においては知財権も重視される。
知的所有権は取戻請求権(占有回収請求権)を有さず、これは所有権との決定的な相違点として強調される[15]。だが、占有回収請求権といっても動産の場合は返還請求権、不動産は明渡請求権でその具体的内容は異なる。又、土地所有者は敷地利用権を有していない建物所有者に対し、建物収去土地明渡請求権を有するが、一棟の建物において複数の建物所有権が成立している建物の区分所有者に対しては、特定の専有部分の収去は物理的に不可能なので、収去請求権は行使できず、代わりに当該専有部分の売渡請求権を有する(建物区分所有法10条。東高判H2.3.27判時1355-59)[16]。このように物権的請求権の具体的内容が変化するのは、物権的請求権は物に対する支配を確保するために生じる権利であり[17]、客体の性質に応じて侵害の排除に効果的な内容とすべきだからである。
管見に対しては、売渡請求権という例外的存在から原則を帰結する、との批判が加えられるかもしれぬ。しかし私は、例外であっても物権的請求権であることを認めるならば、その例外をも包摂しうる概念こそ、物権的請求権概念に値する、と信じる。こう言うと、それは概念法学的思考にすぎない、と再批判されそうだが、学問には論理的体系が不可欠である[18]。知的所有権の差止請求権が取戻請求権を有しなくても、それは客体の性質から導かれるもので、物権的請求権と本質的な相違があるわけではない。
知的所有権の特殊性を客体が無形であり、感知できないからではなく、その無限性に置く見解もある。しかもdigital, network化によってdigital contentsがpackage化されずにnetworkを流通するようになったため[19]、この特徴は一層顕著になった[20]。有体物の場合は、同時に同じ机で書き、同じ家に居住し、同じ土地を耕作することができるのは、非常に限られた数の人であるが、知的財産は無限に多くの人が同時に使用することができる。特定の有体物について他人が使用するのを排除する権利は、その効率的な利用のためばかりではなく、混乱を防止するためにも必要であり、それらの処分について決定し無許諾の使用者を排除する人がいなければならない。これに対して知的財産は無限だからその必要はないと言う[21]。
しかし知的財産の無限性は物理的次元のものであり、社会的次元においては必ずしも当てはまらない。何故なら知的財産は財産的価値ある情報であるが、その利用のされ方如何によってその価値は変動するからである。多数の人に利用されれば知的財産は希薄化するし、冒用されれば混乱が生じよう。故に知的財産においてもそれらの処分について決定し無許諾の使用者を排除する人は必要である。
知的所有権の独自性として、その政策性も主張される。しかし知的所有権制度の真の究極目的は創作者の権利の保障にあり、政策的見地はその権利の規制の指針になるに過ぎない。Paris万国工業所有権保護同盟条約に関する国際会議(1878.9.5−17)でも「発明者や産業上の創作者のその作品に対する権利は財産権であり、民法はこれを創設するものではなく、ただこれを規制するだけ」と宣言した[22]。最判S55.12.18判タ433-88、同昭56.3.13特企148-6も特許法は発明者保護法とする。所有権においても政策的見地から規制が加えられており、知的所有権は第三者への影響が大きいため特に目立つが、政策性も程度の問題に過ぎない。
特許制度の産業政策的要素の例として特許を受けることができない発明(S50年特許法32条)が挙げられる。そこでは、原子核変換の方法により製造されるべき物質の発明を不特許とするが、これは「このような物質に財産的価値がないということではなく、そのような物質の特許を認めることによる産業上の影響を考慮したための規定」である[23]。Italy政府が食物や植物の遺伝子組み換えgenetically modifiedは不特許にすると表明したように[24]、このような制限は現代にも存在しうる。Brazilでは1996年まで化学品、食品、医薬品及び薬剤に関する発明が不特許事由であった。しかし財産権が外的目的によって制限されるのは知的所有権に限られない。銃砲刀剣類所持取締法3条は銃砲・刀剣の、農地法6条は小作農地の所有権を原則として否定するが、これもそれらに財産的価値がないということではなく、認めた場合の治安や耕作者の地位の悪化を考慮したためである。「かように、教育文化のため、保安の維持のため、公共施設の創設維持のため、特殊の産業の維持向上のためというような目的のために、所有権が真正面から制限される例は極めて多い」し、そこに政策的考慮が働いているのは明白である[25]。尤もいかなる政策によるにせよ権利が制限されるのだから、制約は必要最小限のものにとどめるべきである。
特許が外交・安保政策政策に利用された例として西Siberia天然gas pipeline事件がある。Poland政府の国家緊急事態宣言と「連帯」指導者の逮捕に抗議した米国は背後で影響力を行使したと推測されるソ連に対し対する制裁措置として、輸出管理規則を改正して(1982.6.22)、対ソ禁輸措置の対象を内国企業から海外の米国子会社、米国製の部品・米国特許を使用する国外の完全な外国企業にまで拡大した(Amendment of Oil and Gas Controls to the U.S.S.R.)。しかし自国特許権を媒介とする自国法の域外適用に反発する関係国は対抗立法(英仏)・自国企業への説得(西独・伊)によって関連機器のソ連への引渡しを強行した[26]。
知的所有権が「政策的判断で設計しうるもの」ならば、知的財産の保護を独占権ではなく、他の方法によることも可能である[27]。しかし知的所有権は創作者の利益を保障するものであるから、文化・産業の発展のために創作者の利益を縮減させるような権利構築は許されない。立法府には広い裁量権が与えられており、特に経済政策は憲法上の裁量事項とされ、最も司法審査にはなじみにくいとされる[28]。しかし憲法は国民の権利を最大限の尊重を要求しており(13条)、法はその趣旨に最も適合した形で執行されなければならず、不当な政策を許容してはいない。つまり不当であるが適法ということはありえず、「社会通念上著しく妥当性を欠く(最判S53.10.4民集32-7-1223)」程ではなくても、不当・不合理なものならば、法の趣旨に反し違法である。
知的所有権の独自性として、その公共性が主張される[29]。しかしそもそも権利は公共の福祉に反することはできず、公共の福祉に遵うものである(憲法12条、民法1条1項)。知的所有権者は種々の制約を受けるが、それは知的所有権が知的財産の利用者多数の自由を奪うことになるからである。従って公共性も知的所有権には顕著に見られるが、程度の問題にすぎない。しかし公共性が顕著であっても、それを解釈態度に強く反映させるのは危険である。法律関係を個人を中心とする権利義務の関係としてではなく、全体社会の公共の利益のためのものと見る思想が強く[30]、市民的自由の確保の段階から直ちに社会化へ進んだ日本では特に危険が高いと言え、全体主義的思考にのめり込んだ戦前の経験を忘れてはならない。
公共の福祉とは権利相互の間の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であり、社会の利益・公益等とは異なる[31]。従って公共の福祉といっても、それは便宜上そう呼ぶだけで、考慮すべきはあくまで個々人の権利・利益である。権利の制限は全体の利益といった功利主義的な理由によるものであってはならず、自由は、他人を害しない全てをなし得ることに存するのであり(仏人権宣言4条)、権利は権利それ自体のためにしか制約されない[32]。全体は個の総和でしかなく、全体自体の利益を考慮する意義はない。又、私益と公益の調和ということがいわれるが、このような命題を立てること自体が、既に公益の優越を含意しており、ここからは個の全体への譲歩しか導き出せないだろう。最判S24.5.18刑集3-6-839、最判S28.4.8刑集7-4-775、最判S40.3.9民集19-2-233板付事件は公共の福祉と人権・私権を考量しているが、そこからは人権・私権よりも公共の福祉が優先すると言う一方的な論理しか抽出されない[33]。知的所有権においては、制約は知的所有権者の知的所有権と第三者の利用の自由とを調整するために設けられる(TRIPs§7)。
だが、知的所有権と第三者の自由に利用する権利の利益考量にも問題がある。利益考量は一方の利益を他方の利益のために抑制するものであり、そこに価値判断が入り込むから、「ある特定の利益の伸張論」として働く虞がある[34]。そのような考量は利益の価値を歪めたごまかしの考量であり、真の考量ではないと反論されるが[35]、現実問題として相対立する利益の価値を正当に判断することは難しい。しかも知的所有権においては知的財産の創造は特定の人に限られており、知的所有権者よりも知的財産の利用者の方が圧倒的に多く、両者の利益考量によったら、知的所有権と公益の考量の場合と大して変わらず、大抵の場合後者に傾いてしまう。
そもそも利益考量は利害関係人に等質の地位を想定し、地位の互換性を前提とする。この前提が失われれば利益調整の論理自体が破綻する[36]。所有権の場合は貧富の差はあれ、誰もが少しは有しており、泥棒ですら、自己の所有物の所有権は保障されるべきと考えるだろうから、物権を巡る対立は相対的流動的である。今日は自分の飼犬が隣家の庭を荒らして自分の方が加害者だが、明日は隣家の子供が自分の家の庭を荒らし、自分の方が被害者となるかもしれないのである[37]。だが、知的財産の場合は、知的財産を創作できる人は限られており、大半の利用者は常に利用者でしかない。裁判官もどちらかと言えば知的財産の自由な利用で恩恵を受ける側にいる。法律書を著作する裁判官は少なくないが、それは副業であり、それ以外の知的創作をすることは滅多にない。だから裁判官を中立公正な利益考量の担い手として期待するのには無理がある。
digital技術の発達で誰でもmultimedia作品を創作して、それをInternet上で発表できるようになったため[38]、今後は創作者は特殊な人々ではなくなるかもしれない。知的財産に対する関心が高まっている[39]のはこのことと無縁ではない。企業は知的財産を単に金のなる木として注目しているのかもしれないが[40]、それだけなら経済的支配関係が強化されるだけであり、実質的平等・生存権の保障を目指す福祉(社会)国家においては知財権の規制こそが急務となろう。発展途上国のpro-patentに対する警戒もこの点を踏まえてのことであろう。だが、そうではなく誰もが知的所有権者になり得るから[41]、知的所有権への関心が高まっていると考える。権利は個々人の幸福追求の手段としてあり、来るべき高度情報化社会では知的所有権は個人の自己実現の強力な手段になる。
ただ誰にでもできると言っても能力がなければできないのは勿論であり、財産的価値の高い知的財産の創作は特にそうである。逆に技術の発達で能力のない創作者による他人の創作した知的財産の盗用・悪用の危険は高まる。従って高度情報化社会においても大半の利用者は常に利用者でしかないという事情は変わるまい。ただ、高度情報化社会は企業等の組織に従属しなくても、知的財産の創作・発信を可能にさせる[42]。そのような創作者の利益を資本の大なる者に奪われないように保護するのが知財法の任務である[43]。
利用者が創作者の立場になることがないならば、創作者の権利の伸張は利用者には義務の増大でしかなく、利用者にとっては創作者の権利をできるだけ認めない方が都合がよい。日本企業には知的所有権を尊重しない傾向があり[44]、欧米企業から多額の損賠請求される例がよくあるが[45]、それは企業の多くが外国の優れた発明等の利用者に過ぎず、創作者の立場に立つものが少ないからである。知的財産の問題をリスクとして捉える日本企業も多い[46]。創作者と利用者の立場は固定的でzero-sum gameだから、両者の対立の止揚は困難である。調整からはせいぜい妥協しか生まれず、単なる妥協では普遍的正義を実現できず、個別的正義をも満足させることはできない[47]。
そこで知的所有権を、権利を侵害してはならないという一般人の一般的不作為義務が表面に現れない支配権と構成することによって、利用者の存在を後景に退け、権利者と知的財産の関係を第一次的に考察する。支配権は客体を支配する権利だから、権利者は客体の範囲外には権利を行使することはできない。そこで、権利の客体である知的財産の範囲を明らかにすることによって、権利の限界を利益考量によらずに画することができる。このように知的財産の性質から権利の限界を導けば、利用者の利益に引きずられることなく、創作者の利益を正当に保障する結論が出せる。
知的所有権の独自性として存続期間の有限性がある(特67(1)、実用新案法15条、意匠法21条、著作権法51条、種苗法12条の4(2)、半導体法10条2項、不競法2条1項3号、Bern条約7条、TRIPs§12, 26(3), 33, 38)[48]。この議論は識別標識や営業秘密には当てはまらない(cf.商法30、商標19、TRIPs§18)。商標権は存続期間が10年だが、これは不使用登録商標整理のために設けられたもので更新可能である。もし存続期間が永続したら、その弊害は明白であるが(東京地判S25.11.14行集1-12-132)、弊害があるというだけでは説得力に欠ける[49]。
知的創作物の存続期間の根拠は財産的支配の希薄化に求められる。所有権は永続するというが、物が滅失すれば権利は消滅する。物の滅失とは厳密には物理・化学上の変化が起こっただけであり、権利が消滅するのは客体を支配できなくなったからである。知的創作物は情報だから不滅だが[50]、知的財産の客体を支配できなくなれば、知的所有権の消滅も認められる。知的創作物は第三者に認識されることによって、第三者の事実的な意味で自己の知的財産になる[51]。こうして創作者だけのものだった創作が大勢の人の精神に「所有」されることになる。前述のように知的所有権は支配権であり、支配とは排他的なものであるから、多数に知れ渡ることによって支配は希薄化される。特許や実用新案のように思想自体を保護するものは第三者の独自の発明・考案によっても希薄化する。完全に知れ渡ったと考えられる時期以後は、権利者の支配を離れたとみなすことができ、権利は消滅する。
この完全に知れ渡る期間とは単に認識し得る期間では足りず、当該創作を理解し、自らの知識として他の知識と一体化して精神の中にstockし得る期間を指す。それは知的所有権の種類によって異なる。著作物の場合はかなり多数の読者層に知れ渡る必要があるが、特許発明の場合はその発明の属する技術分野において通常の知識を有する者(当業者 特許法36条4項)に知れ渡れば十分である。一般に独自開発の存在によって希薄化するideaはそうでない表現よりも存続期間が短くなるし、創作者との結びつきが緊密な文化的所産はそうでない産業的所産よりも長くなる。
著作権の死後50年という存続期間は著作者の孫の代まで著作権が消滅しないように配慮されたものとされる[52]。死後70年とする法制もある(EU著作権及び特定の関連権の保護機関をharmonizeする理事会directive (1993.10.29)、U.S.ソニー・ボノ著作権保護期間延長法(1998))[53]。米ソニー・ボノ法に対しては延長がなかったら公有に帰した著作物を利用する予定を立てていた出版者グループから、限られた期間排他的権利を保障することによって科学・芸術の進歩を促進するという憲法I章8節8条が議会に付与した権限を越え違憲であると提訴されたが、コロンビア地区連邦地裁1999.10.28判決は「限られた期間」は議会の裁量に従うとして棄却した[54]。
日本の保護期間が外国のよりも短いと相互主義により、その国で日本の著作物が利用された場合、当該著作物は日本の保護期間だけしか保護を受けることができず、当該国における日本の権利者の利益が損なわれる[55]。
1941.12.17に連合国・連合国民が有していた日本における著作権は著作権法に規定する当該著作権に相当する権利の存続期間に、1941.12.8から対日平和条約が効力を生ずる日の前日までの期間に相当する期間を加算した期間、翻訳権は更にそこから6ヶ月追加した期間継続する(連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律4、San Francisco平和条約15(c)(ii))[56]。
新聞等に継続的に連載されている漫画の保護期間は、新聞等に掲載された各漫画毎に個別に起算される(東京地判H4.3.18判時1435-133 Popeye事件)。
著作者の死を基準に存続期間を算定することは利用者にとってのわかり易さや改訂が繰り返された書籍について存続期間が切れた部分と残存部分との振り分けに関する議論を回避するmeritがあるが、著作者以外の者が権利者である場合等は存続期間が著作者の死という偶然に左右されるというdemeritがあり[57]、結果の妥当性の点ではいずれを基準とするか決めかねるが、著作物は人格の投影だから著作者を基準とするのは合理的である。
publicity権の存続期間は未解決の難題だが[58]、それは著作物以上に人格との結びつきが緊密だから[59]、少なくとも著作権と同じ長さ(死後50年)は必要である。ただ死後50年以上となると最早publicity権の本人を直接知っている人はいなくなるのが普通だから、それより長い期間を認めるべきではなく、死後50年間というのがちょうど良い期間と考える。人格との結合が強いということは一身専属性の根拠にもなりうるが、publicity権は財産権であり、相続は可能である。
同種の知的財産でも優れたものもあればそうでないのもあるので、いかなる一律の保護期間もあるものについては長過ぎるし、他のものについては短すぎる[60]。同種の知的財産の保護期間を画一化すると、一般の理解を超えない範囲内にあり、容易に開発し遅滞なく商業化できる知的財産は、権利者の利益は十分に確保されるが、時代に先んじた偉大な知的財産は却って市場化に時間を要しがちなため、知的財産のもたらす総収益の中のわずかな部分だけしか独占を付与された期間内に得られず、不公平感を免れない[61]。しかし高度な発明でも当業者が発明的努力なくして実施できるように明細書には記載されており(特36(4)、中国特許法(1992)26、35 U.S.C. 112, PCT§5, TRIPs§29、最判S53.3.28取消集S57年173)、希薄化は他の発明と同じように進行し、財産的支配から離れてしまったものには最早権利を主張できない。特許権には期間の延長制度があるが[62]、それは発明を実施できなかった場合に限られ、その場合は発明は流通されず支配の希薄化もあまり進まないからである。
知的所有権は知的財産を利用する権利であり、知ることと利用することは別である。だが、知的財産は有体物と異なり、知ってさえいれば事実上利用できるものである。存続期間の法定は知的所有権の客体が知的財産であるところからくる性質で知的所有権にとって本質的なものであり、政策的なものではない。従ってその具体的年数も、発明者の利益と第三者の営業活動の自由との利益考量や産業の発達という目的によって決定されてはならない。
営業秘密は秘密であることが成立の要件であり(不競法2条4項。U.S. Uniform Trade Secrets Act§1(4)(i))、秘密とする価値があり、秘密として守られている限り支配は続くから権利は永続する。KFCのspiceはColonel Sandersが1939年に完成させたものだが、今でも営業秘密である。勿論、know how譲渡によって発生した対価請求権は債権だから消滅時効により消滅する(東京地判S58.9.28判タ536-260宮田自転車事件)。
識別標識が需要吸引力を有し続けていくためには、営業活動と企業努力の継続が必要であるから(商品表示につき、東高判S58.11.15無体15-3-720伝票会計用伝票事件、福岡地判S60.2.15判タ566-299)、ある時点における創作によって完成する知的創作物と異なり、いわば創作し続けていくものであり、そもそも存続期間の起算点を考えることができない。標識が他人に知られても、それは標識が表章している実体の象徴として認識されるわけだから、権利者の支配は希薄化しない。但し標識が表章している実体を離れて普通名称化してしまえばもはやそれは識別標識ではなくなる(商標法46条、Paris条約6条の5B2号、英法15条、米法45条)。その代表的なものに、ナイロン、エスカレーター、キャタピラー、セロテープ、男山[63]がある。これも支配の希薄化として創作物の存続期間と統一的に説明できる。
普通名称化の有無は取引界で識別力を失ったかどうかで判断すべきであり、一般需要者の認識は係わりない(神戸地尼崎支判S36.1.25下民12-1-62、名古屋地判S63.3.25判時423-45)。一般的な呼称のない新製品を市場に出す場合に、商標が一般名詞のように使われて普通名称とされないようにするためには、商標と共にその商品を指し示す一般名詞を付して、需要者が両者を的確に区別できるようにするのも一案である[64]。
知的所有権は私権であり、財産権であり、支配権であり、絶対権である。知的所有権は単に法技術として物権的構成を採っているのではなく、その作用が物権とりわけ所有権と同じだからである。相違は客体が有体物か無体物かの点のみである。従って、所有権と知的所有権を統一して把握することも不可能ではなく、現にBoissonade民法(1980公布)6条は有体物と無体物を含んだ物の支配権原を所有権とした[65]。これに対して現行民法85条は所有権の客体を有体物に限定したが、これは旧民法によると債権の所有権、地上権の所有権等を認めざるを得なくなり、物権と債権の峻別をあいまいにし、更には所有権の所有権すら認めざるを得なくなりかねないからである[66]。それ故、現行民法は知的財産に対する所有権を否定するために所有権の客体を有体物に限定したわけではない。ただ、学問の発展とともに研究は精緻になり、専門化・細分化が進行する。現行民法するのも無体物の支配権を否定したのではなく、民法の対象を有体物のみに絞ったことを意味するにすぎない。
学問は他のものと同様、分業によって利するところは多大である。もし分業が行われないで各人が何でも屋をするとなると、全ての学問分野が未発達の状態にとどまってしまう[67]。この事実を考慮すると、知財法学は特殊な研究者を必要とする。又、知財法学は先端技術や文化財を対象とするから学際的になるが、学際的研究者としては黴の生えた判例集を漁り、無味乾燥したimageのある法律学から距離を置くべきなのかもしれない。この点で知財法学が法学各部門から学問としての独立性を確立するために、知財権の独自性の主張が重要な役割を果たしたことは認めるが、そのために創作者の権利保護が疎かになっているのではないだろうか。
近代民法は封建時代の複雑な利用関係を単純化して所有権絶対の原則を樹立したが(仏民法545)[68]、それは個人が他の干渉を受けずに自由に所有物を使用収益処分できるようにするためである。私的所有権制度は個人の利益を最大限保障するために導入されたものであり、弊害があるにしてもそれに代わりうるものは少なくとも現在のところ見当たらない。所有権絶対の原則は社会的見地から種々の修正を加えられているが、それはあくまで修正にとどまり、現在でも民法の基本原理たるを失わない。
情報は有体物とは異なった特性をもち、新しいぶどう酒は古い革袋に入れてはならないように[69]、知財法学は民法の物概念を単純に経済的価値ある情報に拡張して解決できるものではない[70]。従って知財権を所有権的と言うとしても民法の所有権の規定を類推適用せよということを言いたいのではない。ただ各人の利益を各人に保障するために既存の法理論が築き上げられてきたことを考えれば、知財法学においても権利者の利益を正当に保護するためには、所有権法から多くを学ぶ必要があろう。
[1] 川和功子「コンピュータ契約と統一商事法典第二編1」民商113-4(1996)704
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[3] 新田敏他「君嶋祐子君学位請求論文審査報告」法学研究69-8(1996)199
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[5] 紋谷・無体財産権法概論7版27・8
[6] 紋谷・特許法50講4版24(仙元隆一郎)
[7] 川島武宣・民法総則(有斐閣1965)145。末川博・物権法(日本評論社1956)10
[8] 新田敏「未分離の果実の独立性について」法教2期5号37
[9] 鈴木禄弥・物権法講義2訂版(創文社1979)4、森泉章・民法入門U(実務教育出版1984)153
[10] 川島武宣・所有権法の理論(岩波1949)102・122
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[12] 我妻栄・民法研究V物権(有斐閣1966)260
[13] 藤田祥子「社員権について」法学政治学論究33(1997)161
[14] 経済社会が未成熟な段階では抵当権公示制度を設けても、あまり利用されない。プロシアにつき、斎藤和夫「1722年プロイセン『抵当権・破産令』中のインミシオーン質権制度」法学研究69-1(1996)75
[15] 中山・工業所有権法上29
[16] 新田敏「建物の区分所有における専有部分の敷地利用権」法学研究69-2(1996)62
[17] 新田「未分離の果実の独立性について」38
[18] 石田喜久夫「自然債務と言う概念は必要か」法教2期8号44
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[25] 我妻栄・新版民法案内IV(一粒社1968)3。川上勝己「財産権の制限と補償の要否」法教2期4-94
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[31] 宮沢俊義・憲法U新版(有斐閣1971)230。公共の福祉をめぐる学説については、今村成和「公共の福祉」ジュリスト638(1977)142。cf.斉藤寿・公的価値の憲法学的研究(評論社1997)
[32] Rawls, J., A Theory of Justice, Harvard UP, 250 (1971).
[33] 伊藤正己「憲法解釈と利益衡量論」ジュリスト638-200、同「憲法解釈における利益較量論」法教2期1号(1973)24。加藤一郎・法協82-6
[34] 戒能通孝「『権利濫用』と『公共の福祉』」法時30巻10号(1958)7
[35] Alfange, The Balancing of Interests in Free Speech Cases: In Defense of an Abused Doctrine, 2 L. in Trans. Q. 35 (1965).
[36] 久保欣哉「株式会社法における計算規定の重要性」法教2期7号64
[37] 渡辺洋三・法というものの考え方(岩波書店1959)119。地主制のような所有形態だと対立は固定的絶対的なものになるから廃止論が力を得やすい。
[38] 苗村憲司=小宮山宏之編著・マルチメディア社会の著作権(慶大出版会1997)223(苗村)、「メールで雑誌発行」読売新聞2000.1.13。Internetはアメリカ国防総省高等研究計画局ARPAによって分散computer systemの構築を目的として計画された、異機種コンピュータ接続による実験ネットワークARPANETから出発した。
[39] 守誠・特許の文明史(新潮社1994)24
[40] 「デジタル時代と知的財産権」GAN vol.41 (1996)には、「経営戦略、あるいは営業戦略としての知的財産権」という表現がある。
[41] 林田英樹「著作権情報センター創設40周年を祝して」コピライト461(1999)1
[42] ただ現在、企業は情報端末の主流をdesktopから、mobile更にwearable computing、パソコンから情報家電に移している(Kahn, P.(CEO of Starfish Software), The Next Revolution: Connected Information Devices That Work Seamlessly Together, http://www.starfish.com/news/pk_tech/appliances.html(1997)、安西祐一郎「身につけるパソコン“進化中”」読売新聞12版1999.1.20、32面。池松洋「プレステ2の衝撃」読売新聞12版1999.3.10、36面)。既に動画の再生もできる腕時計型の情報端末(セイコーインスツルメンツ・Rupter Pro 4)も販売されている。しかし情報家電は使用目的が予め定められているからuserの自由度には限界があり、小型端末はそれのみでできることは少なく外部との通信機能だけが強化されるから、このまま進めば高度情報化社会はsmoothなdata転送と、大きなsystemとの間の安定した接続性だけの世界になってしまう(Canter, M., Mark Canter X, Eye-com No.169, 21(1997).)。携帯電話・PHS端末のdial buttonと通話buttonの操作だけで、Internetにaccessし、home pageを読んだり、mailの送受信ができるserviceも行われており(NTT移動通信網・iモード、アステル東京・MOZIOナビサービス)、mobileやwearableはパソコンを使えない人にnetwork利用の道を開くが、userは単にcommunication能力の向上だけを求めているのではない。高性能パソコン・softwareの登場によって多くの人に文章の執筆、作画、作曲、programming等、創造的営為が開かれた。吹き込んだ自分の歌を音符化する作曲支援softwareや開始・中間・終了色を指定することでgradationを作成するsoftware(ダイナシステム・ソング頼太、SHO・GRAPA)等を利用すれば直観的に創作を行うことができる(これらのsoftwareを利用して創られた著作物の著作者は、絵筆の製造者が絵の著作者でないのと同じく、softwareのuserである)。mobileやwearableだけの情報化社会では個人の表現活動の発展は望めない。それどころかジョージ・オーウェル・1984年(1949)の「tele screen」のように、市民の行動を逐一監視し恐怖を与える全体主義のmediaになりかねない。
[43] 吉藤幸朔=熊谷健一・特許法概説12版(有斐閣)11
[44] 豊田正雄「これからの特許出願戦略」企業診断41-5(1994)。富田徹男「ベンチャービジネスと特許」特許ニュース1994.10.21.「オウム族『先駆者は損』、2番手狙い」日経新聞1994.1.21。『「技術立国・日本」が危ない』別冊宝島207号。programの不正複製について、夏井高人「PDSをめぐる法律問題」判タ681-20
[45] 「日本の電機11社などを提訴 半導体など『特許侵害』」読売新聞夕刊2000.1.7
[46] 長谷川猛「重要性増す『リスク管理』」NBL 625(1997)3
[47] 水辺・法学29(水辺)
[48] Blackstoneは精神的所有権論の立場から著作権の永久性を主張した。半田正夫・著作権法概説8版15
[49] 織田季明他・増訂新特許法詳解(日本発明新聞社1972)280
[50] 松村=住吉・法学最前線112(小田敬美)
[51] 著作権につき、小宮山宏之「著作物について」法学研究70-1(1997)171
[52] WIPO=黒川徳太郎訳・ベルヌ条約逐条解説(著作権資料協会1979)51
[53] 原田文夫「アイルランドの新著作権法案」コピライト464(1999)38
[54] 原田文夫「著作権保護期間延長法の違憲の議論退けられる」コピライト467(2000)39
[55] 著作権審議会第1小委員会「著作権審議会第1小委員会審議のまとめ」コピライト466(2000)5
[56] 作花文雄「翻訳権をめぐる著作権制度の歴史」コピライト459(1999)110
[57] ラットマン他=内藤篤訳・1990年代米国著作権法詳解上(信山社1991)266
[58] 斉藤博「氏名・肖像の商業的利用に関する権利」特許研究15-18
[59] 大家重夫・著作権判例百選2版189
[60] 杉林信義「技術革新後の模倣、ラグに対する一考察」日本法学55-4(1990)141
[61] Penrose, E.T., The Economics of the International Patent System 30.
[62] cf.小栗昌平監修・改善多項制・特許権の存続・期間の延長制度(発明協会1988)
[63] 原田文夫「商標『男山』」コピライト461(1999)111
[64] 林泉「商標の普通名称化」特管23-8(1973)879、小野昌延・商標管理入門(有信堂1966)171
[65] 中山信弘「著作権保護と情報の利用・流通促進の基本的視点」ジュリスト1057(1994)49
[66] 星野英一「日本民法典に与えたフランス民法の影響1」日仏法学3(1965)65
[67] Kant, I.=篠田英雄訳・道徳形而上学原論(岩波書店1960)9
[68] 我妻栄・新版民法案内V(一粒社1968)9
[69] Matthewによる福音書9-17、Markによる福音書2-22、Lukeによる福音書5-37
[70] 松本恒男「契約・取引法の課題」法学セミナー370号(1985)63